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2014-07-07 (Mon)
ご無沙汰しております。
かれこれ半年ぶりの更新です。

歌は未だお休み中。
今はダンスのレッスンに励んでおります。


さて、本日の本題。
過日、外苑前のワタリウム美術館で開催中の「ルドルフ・シュタイナー展 天使の国」に行って来ました。
シュタイナー_8.23


きっかけは、ネットの何かでたまたま目にした記事。
ルドルフ・シュタイナーがどんな人なのかはよく知らず、その記事にあった「ヒトラーがもっとも危険な男として恐れた」
ということだけの予備知識。

今回の展示について、一応調べたところ、
「オーストリア(現クロアチア)出身の思想家、ルドルフ・シュタイナーの展覧会。ゲーテ研究者、教育者としても知られるシュタイナーが、講義の際に聴講者に図示するために、チョークを用いて描いた神秘的な黒板絵、哲学のもとにデザインされた家具やランプ、装飾品などの写真や模型のほか、坂口恭平やオラファー・エリアソンといった、シュタイナーに影響を受けた現代美術家たちの作品も紹介。20世紀美術に多大な影響を与えたシュタイナーの頭のなかを辿る。」
Time Out Tokyoより)

わかるようで、よくわからない。

実際の展示。
講義の際に用いたという黒板絵が全体のほぼ半数近いボリューム。
絵に対して一枚ずつ、講義でシュタイナーが述べたことが添えられているのだけど、これがまた難解。
でも、絵は不思議とダイナミックで忘れがたい。
例えば、こんな。ふと、パウル・クレーの素描を思い出した。
ルドルフ・シュタイナー 月と地球


シュタイナー

壁には、シュタイナーの言葉がいくつか書かれている。
印象に残ったのは
「新しい人間を迎える女性は、月になります」
「リンゴや桃のようなおいしい果実は、惑星の働きを受けて実ります」
といった、割と平易な言葉の文だったけれども。


黒板画の他には、シュタイナーが建築した「ゲーテヌアム」という建物や、
彼がデザインしたアクセサリー、家具などの展示もありました。
pendanto.jpg

2f_740.jpg
(ここまで展示品等の写真はワタリウム美術館サイトより)

アクセサリー、他にも素敵な指輪がたくさんあったのだけど、どれもシトリンやアクアマリン、アメジストといった天然石が
施された美しいもの。
ストーンの意味も、きっと考えてデザインされたのだろう。
椅子は背もたれが水晶クラスターの形。

quartz-cluster_2493879.jpg(参考・水晶クラスター)


シュタイナーが唱えた「人智学」というものがどんなものか、正直よくわからない。
でも、なんとなく、ぼんやりと私なり解釈で思ったのは、

「人間も地球も宇宙そのもの」

みたいなこと、だろうか。

パワーストーンが好きなのも、何となくぼんやり占いを信じてることも、
気圧が低くて頭と体が重くなることも、
化学調味料よりも天然・自然のものが美味しいと感じることも、
女性の体の周期と気分がリンクすることも

それらはつまり、人間も宇宙で、地球の産物だからだとしたら。

そうかもしれないと思ったら、自分の中でバラバラしていたものが少し纏まったような気がした。


この展示を観に行った翌朝から丸一日、なぜか急に出た発熱で、一日寝込んでしまったのですが。
日頃の疲れが原因だろうと思いつつも、どうもシュタイナーのせいのように思えてならない。
何の覆いも無く展示してあるものばかりだったから、何らかの気を受け取ってても不思議ではないし。
強烈な彼の思想が、何かを浄化しようとした結果の、解毒作用で発熱したんじゃないか?
そんな風に思ってます。

会期中は何度でも入れるパスポート制なので、再訪しようかなと思います。
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2013-12-01 (Sun)


東京都現代美術館で開催中の『吉岡徳仁〝Crystallize〟』を観てきました。
数々のプロダクトや空間、建築など、多岐に渡る分野で活躍している吉岡氏。
今回の展示は近年の作品を包括的に見られるということで、チェックはしつつ、ようやく会期中盤の今になってようやく行くことができました。


写真撮影が許可されていたのは、こちらの二作品。



まず初めの部屋〝Water Block〟。
トルネードを模したストローの造形の中に現れるのは、このガラスの長椅子。
まるで水を固めたようなその透明感が美しい。





そして、おそらく今回の目玉と思われる〝虹の教会〟。
たくさんのプリズムが配置された奥から、さんさんと降り注ぐ光は虹色に変わる。
先ほどの〝Water Block〟が、座れるように配置されており、しばしそこに腰掛けて光を浴びてみた。
平日の17時頃という時間もあり、人はかなりまばら。
しばらくすると、この〝虹の教会〟の部屋も、私一人きりになった。
ほとんど無音の中、光が注ぐだけなのに、なんとも言えない体感…包まれているというか、光に重ささえ感じる。

吉岡氏はフランスのドミニカ礼拝堂の光の美しさに感銘を受けて、この作品を作ったとのこと。
礼拝堂に、光。
〝虹の教会〟のイスで、圧倒的な光の中、確かに福音のようなものを感じた気がした。
特別な信仰のない私が感じたのは、一体何なのだろう?




これ以外の作品は撮影禁止だったので、webからお借りした画像で。



エントランスから、他何カ所かで見られる〝トルネード〟。
長いストローのようなもので作られた、巨大な渦。
これは接着剤などを一切使わずに作られているらしい。
それこそ竜巻を可視化して留めたような造形、その間を歩いていくと、本当に渦の中に埋れたような気がしてくる。
大きな自然の力のようなものを感じさせる作品。






そして、今回一番印象に残ったのはこちらの〝白鳥の湖〟。

展示室内にはチャイコフスキーのタイトル曲が流れる。
中央のプールは、水を循環させるボコボコとした音を立てていて、中には結晶。
壁面には、そのようにして作られた結晶を取り出して4つ、展示されている。
それぞれ、楽曲の違うシーンを結晶に聞かせたものだそうで、《Swan Lake, Op.20. Introduction|白鳥の湖》《Swan Lake, Op.20. No.10scene|白鳥の湖》などと記されている。

不思議なことに、オープニングの静かなシーンを聞かせた結晶はボコボコしたブロック状、一番盛り上がるシーンは尖った結晶になっている。
「音が振動として水面に伝わって結晶ができるのだから、形が違うのは当たり前」と言ってしまえばそれまでだが、だからと言って音量や音数だけで同じ形にもならないだろうし、何より曲想に合った形に造形されているのが何とも不思議でならない。


この〝白鳥の湖〟の部屋に、一人きりでいる贅沢感は、なんとも言えないものだった。
真っ白な部屋、静かに流れるチャイコフスキー、水音…
静謐な空間、研ぎ澄まされた雰囲気。
ちょっと言葉で形容できないような、何か「力」のようなものがそこにあるような。

自然の力をそれぞれの形に変えて表現されたような作品群。
展示を見終わって、すごくリフレッシュした気分になった。
後から思い返すと、例えば森林浴でフィトンチッドを吸い込んだような、あるいは滝やせせらぎでマイナスイオンを浴びたような、そんな気分になったようにも思える。
自然という癒しに、デザインのチカラをうまく取り込んでいるような。


そんな気分を部屋に持ち帰りたくて、ポストカードを購入。



展示会カタログも買いたいので、会期中にもう一度行こうかと思います。
~1/19まで、東京都現代美術館。


お借りした写真はこちら二つのサイトから。
とてもよくまとまったレポートです。

http://sumau.com/page_category/parent_information/information/10451.html

http://world-architects.blogspot.jp/2013/10/tokujinyoshioka-crystallize.html?m=1
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2013-08-09 (Fri)


『永遠と一日』
1998年 テオ・アンゲロプロス監督
主演 ブルーノ・ガンツ


手元にありながら観る心構えがなかなか出来ず、ながらく宿題のようになっていたアンゲロプロスの『永遠と一日』を観ました。
テオ・アンゲロプロスという監督のことは、実は全く知りませんでした。
後から調べておぼろげにわかったことは、ギリシアの監督で、巨匠と言われる。数々の受賞歴。
その程度の予備知識。
ちなみに、主演のブルーノ・ガンツは『ベルリン天使の歌』に出ていたそうです。映画好きの方には、もうこれでピンと来るのでは。


アンゲロプロス監督の作品は、齋藤徹さんの「うたをさがして」トリオで多く取り上げています。
「うたをさがして」トリオのCDはもうかなり聴き込んでいるのですが、いつかアンゲロプロス監督の作品は観ないと…とずっと思っていたのです。



簡単なあらすじ。
ネタバレ含みますが、筋書きが重要な映画ではないと思いますので、読んでも大丈夫だと思いますが、一応ご注意下さい。


一時代を築いた作家・アレクサンドレは、治る見込みの無い病に侵され、明日入院する。
アレクサンドレは入院前の一日を最後の日と思い、それまでの人生の追憶とも言える人や場所を訪ねていく途中、不法入国で追われるストリートチルドレンの男の子を助ける。
この男の子との交流を通して、失われた少年時代と、亡き妻の思いは時空を越え、アレクサンドレは「永遠」を見つける旅に出る…



エンドクレジットによれば、主役のブルーノ・ガンツのコートはアルマーニらしい。
うーん、確かに、それっぽい。
それはともかく。

まるで小説を読んでいるような映画でした。
漱石とか、あるいは、私が大好きな福永武彦とか、その辺。
奇しくも、台詞の訳文は作家の池澤夏樹氏によるものだが、池澤氏は福永武彦の息子である。いやはや。

静かな、静かな映画。
音楽も、台詞も、最低限しかない。
こんなに静かな映画を観たのは久しぶりでした。
だからこそ、語られる言葉がすべて印象的で、使われる音楽も強い印象を残す。

文学作品のような映画のあらすじを語っても仕方が無いので、断片的な印象を。




冒頭、少年時代の思い出。
夏の日、仲間と無心で泳いだ海。
伝説を探す冒険の始まり。
懐かしい海辺の家、食事を知らせる母親の声。

男性というのは、少年時代の思い出を特に大切に想っている気がします。
女性が少年時代を語るよりも、もっと自分の根幹に関わるものとしての、少年期の記憶。

「砂浜でお手玉遊びをする子供、それが、時だってさ」

アレキサンドレ少年の友達の言葉。
「時」とは何だろうか。
この作品の主題でもあります。





第二の追憶は、三年前に亡くなった妻・アンナが言う「私の日」。
ある夏の日、海辺のあの家。
アンナは長女を出産したばかりで、その赤ちゃんを見るために親戚一同が訪ねて来る。
美しい赤ん坊と、みんなからの祝福。
アンナにとってはまさに人生最良の日だったのだろう。
でも、そんな中でも、アンナの淋しさは消えない。
その日のことを、アンナは手紙に綴っていた。

「本のことしか考えないのね。
いつになったら二人になれるの。
私には飛び去らないように、ピンで刺し止めたいほど大事なときだった・・・
夜、あなたを見ていた。
寝てるの、黙ってるの?
考えているあなたが怖い。
沈黙に割り込むのが怖い。
だから私は体で、私は傷つきやすいと伝えた。
それが私の唯一の方法だった。
私はただの恋する女よ、アレクサンドレ・・・」



この手紙の内容を、アレキサンドレは「最後の日」の今日、初めて知ることになる。
そこから、妻への想いが、永遠の扉を開ける。







この「私の日」の記憶は断片的に何度も映画の中に挿入されます。
この日に集う親戚たちは、おそらく「生」の象徴。
夏の日、太陽、海、白い夏服で歌い踊る人々…
だから、記憶に混ざる現在のアレキサンドレは、黒いコートで場にそぐわない。

もう一人、黒い服の人物がいる。
アレキサンドレの母である。
舟遊びをしている時も、母だけはみんなから離れ、「死んだ(アレキサンドレの)父さんの夢ばかり見る」と言う。
アレキサンドレと同じく、死に囚われた母。
けれど、同じ軸に彼らは同時に存在する。
生と死、過去・現在・未来。







アレキサンドレが近年打ち込んでいた、ギリシアの19世紀の実在の詩人・ソロモスの研究。
若き日のソロモスは、アレキサンドレ自身の投影なのかもしれません。

当時ソロモスは海外にいましたが、オスマントルコ支配下のギリシアで民衆が蜂起。
それを知ったソロモスは決意します。

「詩人の義務は?革命賛歌を作り、死者を弔い、民衆に自由を教える」

ところが、ギリシアに帰ったものの、「革命賛歌を書こうにも、母の言葉が分からない」
そこで、村人から知らない言葉を聞き、それに金を払うという方法を取ります。
噂を聞きつけた貧しい人々がソロモスの元を訪ね、次々に言葉を売るのです。

深淵 かぐわしい 朝露 始源
夜鳴き鶯 天空 波濤 湖 未知なる馥郁たる 夢見心地


売られる言葉の数々。気になるのは「夜鳴き鶯」。
ストラヴィンスキーのオペラのタイトルに、同じものがあります。
時代的にはストラヴィンスキーの方が後ですから、その辺の関連性はよくわかりませんが、「夜鳴き鶯」もすごく気になるオペラなのです…それはさておき。
言葉を買って、詩を作るソロモス。
その行動は、最終的にアレキサンドレにも大きな影響を及ぼします。




少年とアレキサンドレが別れの前に乗りこむ「魂のバス」。
海岸線を走るバスは、不思議な人々が乗り降りする。
「魂の駅」でたくさんの人が降り、レジスタンスの若者が反旗の赤旗を持って乗り込んでくる。
芸術を志すカップルは、ケンカしながら降りる。
音大生らしき3人は、楽器と譜面を持って乗り込み、突然演奏を始める。
「オディオン」(劇場、という意味)で彼らは居なくなり、詩人ソロモスが乗ってくる。
「人生は美しい」という言葉で終わる詩を言い残すが、アレキサンドレの「明日の長さは?」の問いには答えない…。

これって、『銀河鉄道の夜』だよなと咄嗟に思いました。
アンゲロプロス監督が宮沢賢治を知ってるのかわかりませんが、「こちら」と「あちら」を繋ぐ装置としての乗り物というのは、良く使われる手段でもあります。
「魂の駅」は「南十字」のよう。
車窓から見えるレインコートの自転車乗りも、何かの暗喩に見えます。




何度観ても、何か発見がある映画です。
そして、考えさせられる。
「どこにいても、よそ者」という考え方は、あるいは私の中にもずっと存在しているものとよく似ています。
アレキサンドレも、こんなことを言っています。

「なぜ、願うことが願いどおりにならない?
なぜ我々は希望もなく、腐ってゆくのか
苦痛と欲望に引き裂かれて…
なぜ私は一生よそ者なのか?
ここが我が家と思えるのは、まれに自分の言葉が話せた時だけ…」


彼のこの苦悩は、ある解釈をもって、一応の決着がつけられます。
人から言葉を買って詩を作ったソロモスのように、他人と関わることで見つかる「明日」と「永遠」。

…私にも、この発見は重要かもしれない。
自分を探す旅は、すなわち、誰かと関わること、繋げること、なのかもしれない。
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2013-05-13 (Mon)


今回も巷を騒がせた、村上春樹氏の新刊。
少し前に読了しました。
ハルキストとしては、新刊が出たらとりあえず外せませんので。

前作『1Q84』で個人的に気になっていた「愛」についての言及。
それまでにはない、「愛」という直接的な表現。
結局、book3まで読んだものの、やや釈然としなかったのですが…

今回の作品、愛という言葉はさほど出てきませんでした。
それよりも、主人公の抱える悩みというか、自分への諦観がまるで自分のことのようで…。

以下、多少のネタバレを含みますので、未読の方はご注意ください。








主人公つくる君が、自分のことを「僕はいつも自分を空っぽの容器みたいに感じてきた。」と言うシーンがあります。
この、「空っぽの容器」という表現は、私が落ち込んで鬱がちになった時、必ず自分の口から出てくるフレーズによく似ていました。
自分には中身がない、ということもまたしかり。
つくる君の長年の自己評価は、ほとんど自己否定の上に成り立っていて、そのことは本当に私も同じでした。
このセリフのあと、ある人物からまるで赦されるような言葉を受けるのですが、その時まるで自分が赦されてるような気がして、涙が止まらなかった。

これだけたくさんの人に読まれるであろう本に、こんなに自分みたいな主人公が描かれるなんて…と思ったが、それはつまり、こんな風に思いながら生きてる人間は少なくないということだろうか、と思い当たり。
そう思えば、なんだかホッとした。
私だけじゃ、ないんだ。

そして、人は調和よりも痛みや傷によって結びつくというような表現にハッとした。
今までのハルキには現れてこなかった表現。

そして、最後に救われる言葉。
「すべてが時の流れに消えてしまったわけじゃないんだ
僕らはあのころ何かを強く信じていたし、何かを強く信じることのできる自分を持っていた。
そんな思いがそのままどこかに虚しく消えてしまうことはない」

この文は、今後、私を支えることになるように思うのです。
何かを信じることはとても貴重なことで、たとえ時の移り変わりと共に何かが失われてしまっても、ある時「信じた」ということは決して無駄ではない。
だから、傷つくことは恐れずに、前を向いて。
傷つかなければ、本当の絆など、生まれはしないのだから。

強く、生きなければね。
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2013-04-22 (Mon)
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春陽展チラシはこちら


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昨日タップレッスン後、ダッシュでコレを観てきました。
春陽展に出品されている絵の中に、舞踏の工藤さんをモデルにしたものがあり、その前でのパフォーマンス。
チラシには「絵と舞踏と音楽のコラボレーション」とありました。
齋藤徹さんと工藤丈輝さんのパフォーマンスは、昨年末も見ました。
(そのレポートはこちら

少し遅刻したけど、概ね観られた!
展示室内はすでに人だかり。
なんとかそれをかき分け、かき分け…。
立ち見で40分ほど。圧巻でした。

地明かりの下で観る工藤さんの舞踏は、また新鮮でした。
今回のパフォーマンスは「痛み」の表現が強く印象に残りました。
見えているのに手が届かない、大切なもの。
たどり着く前に、何ものかに阻まれる苦しみ。
やがて閉ざされる心。
工藤さんは身体を容赦無く地面に叩きつけるアグレッシブなパフォーマンスのため、途中で手を負傷したようだ。
床には血痕が残る。
痛みによって、流される血。
人はこうして、傷つくと痛みをともなった血を流す。

徹さんのベースを観て、「コントラバスの可能性を感じた」と感嘆していた若いカップルの感想が嬉しかった。
不特定多数の前でのパフォーマンスは相当な集中と消耗があるはずだけど、
徹さんのような表現を知らない人に観てもらうには絶好の機会なのでは。

私にとってアートとは、心に投げかける小石のようなもの。
心に波紋を呼び、そこに沈んだ小石の意味を、今はまだ知らない。
でも、それは確実にそこに存在する。
今日の「痛み」もまた。
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