07≪ 2017/08 ≫09
12345678910111213141516171819202122232425262728293031
-------- (--)
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
| スポンサー広告 |
2013-08-09 (Fri)


『永遠と一日』
1998年 テオ・アンゲロプロス監督
主演 ブルーノ・ガンツ


手元にありながら観る心構えがなかなか出来ず、ながらく宿題のようになっていたアンゲロプロスの『永遠と一日』を観ました。
テオ・アンゲロプロスという監督のことは、実は全く知りませんでした。
後から調べておぼろげにわかったことは、ギリシアの監督で、巨匠と言われる。数々の受賞歴。
その程度の予備知識。
ちなみに、主演のブルーノ・ガンツは『ベルリン天使の歌』に出ていたそうです。映画好きの方には、もうこれでピンと来るのでは。


アンゲロプロス監督の作品は、齋藤徹さんの「うたをさがして」トリオで多く取り上げています。
「うたをさがして」トリオのCDはもうかなり聴き込んでいるのですが、いつかアンゲロプロス監督の作品は観ないと…とずっと思っていたのです。



簡単なあらすじ。
ネタバレ含みますが、筋書きが重要な映画ではないと思いますので、読んでも大丈夫だと思いますが、一応ご注意下さい。


一時代を築いた作家・アレクサンドレは、治る見込みの無い病に侵され、明日入院する。
アレクサンドレは入院前の一日を最後の日と思い、それまでの人生の追憶とも言える人や場所を訪ねていく途中、不法入国で追われるストリートチルドレンの男の子を助ける。
この男の子との交流を通して、失われた少年時代と、亡き妻の思いは時空を越え、アレクサンドレは「永遠」を見つける旅に出る…



エンドクレジットによれば、主役のブルーノ・ガンツのコートはアルマーニらしい。
うーん、確かに、それっぽい。
それはともかく。

まるで小説を読んでいるような映画でした。
漱石とか、あるいは、私が大好きな福永武彦とか、その辺。
奇しくも、台詞の訳文は作家の池澤夏樹氏によるものだが、池澤氏は福永武彦の息子である。いやはや。

静かな、静かな映画。
音楽も、台詞も、最低限しかない。
こんなに静かな映画を観たのは久しぶりでした。
だからこそ、語られる言葉がすべて印象的で、使われる音楽も強い印象を残す。

文学作品のような映画のあらすじを語っても仕方が無いので、断片的な印象を。




冒頭、少年時代の思い出。
夏の日、仲間と無心で泳いだ海。
伝説を探す冒険の始まり。
懐かしい海辺の家、食事を知らせる母親の声。

男性というのは、少年時代の思い出を特に大切に想っている気がします。
女性が少年時代を語るよりも、もっと自分の根幹に関わるものとしての、少年期の記憶。

「砂浜でお手玉遊びをする子供、それが、時だってさ」

アレキサンドレ少年の友達の言葉。
「時」とは何だろうか。
この作品の主題でもあります。





第二の追憶は、三年前に亡くなった妻・アンナが言う「私の日」。
ある夏の日、海辺のあの家。
アンナは長女を出産したばかりで、その赤ちゃんを見るために親戚一同が訪ねて来る。
美しい赤ん坊と、みんなからの祝福。
アンナにとってはまさに人生最良の日だったのだろう。
でも、そんな中でも、アンナの淋しさは消えない。
その日のことを、アンナは手紙に綴っていた。

「本のことしか考えないのね。
いつになったら二人になれるの。
私には飛び去らないように、ピンで刺し止めたいほど大事なときだった・・・
夜、あなたを見ていた。
寝てるの、黙ってるの?
考えているあなたが怖い。
沈黙に割り込むのが怖い。
だから私は体で、私は傷つきやすいと伝えた。
それが私の唯一の方法だった。
私はただの恋する女よ、アレクサンドレ・・・」



この手紙の内容を、アレキサンドレは「最後の日」の今日、初めて知ることになる。
そこから、妻への想いが、永遠の扉を開ける。







この「私の日」の記憶は断片的に何度も映画の中に挿入されます。
この日に集う親戚たちは、おそらく「生」の象徴。
夏の日、太陽、海、白い夏服で歌い踊る人々…
だから、記憶に混ざる現在のアレキサンドレは、黒いコートで場にそぐわない。

もう一人、黒い服の人物がいる。
アレキサンドレの母である。
舟遊びをしている時も、母だけはみんなから離れ、「死んだ(アレキサンドレの)父さんの夢ばかり見る」と言う。
アレキサンドレと同じく、死に囚われた母。
けれど、同じ軸に彼らは同時に存在する。
生と死、過去・現在・未来。







アレキサンドレが近年打ち込んでいた、ギリシアの19世紀の実在の詩人・ソロモスの研究。
若き日のソロモスは、アレキサンドレ自身の投影なのかもしれません。

当時ソロモスは海外にいましたが、オスマントルコ支配下のギリシアで民衆が蜂起。
それを知ったソロモスは決意します。

「詩人の義務は?革命賛歌を作り、死者を弔い、民衆に自由を教える」

ところが、ギリシアに帰ったものの、「革命賛歌を書こうにも、母の言葉が分からない」
そこで、村人から知らない言葉を聞き、それに金を払うという方法を取ります。
噂を聞きつけた貧しい人々がソロモスの元を訪ね、次々に言葉を売るのです。

深淵 かぐわしい 朝露 始源
夜鳴き鶯 天空 波濤 湖 未知なる馥郁たる 夢見心地


売られる言葉の数々。気になるのは「夜鳴き鶯」。
ストラヴィンスキーのオペラのタイトルに、同じものがあります。
時代的にはストラヴィンスキーの方が後ですから、その辺の関連性はよくわかりませんが、「夜鳴き鶯」もすごく気になるオペラなのです…それはさておき。
言葉を買って、詩を作るソロモス。
その行動は、最終的にアレキサンドレにも大きな影響を及ぼします。




少年とアレキサンドレが別れの前に乗りこむ「魂のバス」。
海岸線を走るバスは、不思議な人々が乗り降りする。
「魂の駅」でたくさんの人が降り、レジスタンスの若者が反旗の赤旗を持って乗り込んでくる。
芸術を志すカップルは、ケンカしながら降りる。
音大生らしき3人は、楽器と譜面を持って乗り込み、突然演奏を始める。
「オディオン」(劇場、という意味)で彼らは居なくなり、詩人ソロモスが乗ってくる。
「人生は美しい」という言葉で終わる詩を言い残すが、アレキサンドレの「明日の長さは?」の問いには答えない…。

これって、『銀河鉄道の夜』だよなと咄嗟に思いました。
アンゲロプロス監督が宮沢賢治を知ってるのかわかりませんが、「こちら」と「あちら」を繋ぐ装置としての乗り物というのは、良く使われる手段でもあります。
「魂の駅」は「南十字」のよう。
車窓から見えるレインコートの自転車乗りも、何かの暗喩に見えます。




何度観ても、何か発見がある映画です。
そして、考えさせられる。
「どこにいても、よそ者」という考え方は、あるいは私の中にもずっと存在しているものとよく似ています。
アレキサンドレも、こんなことを言っています。

「なぜ、願うことが願いどおりにならない?
なぜ我々は希望もなく、腐ってゆくのか
苦痛と欲望に引き裂かれて…
なぜ私は一生よそ者なのか?
ここが我が家と思えるのは、まれに自分の言葉が話せた時だけ…」


彼のこの苦悩は、ある解釈をもって、一応の決着がつけられます。
人から言葉を買って詩を作ったソロモスのように、他人と関わることで見つかる「明日」と「永遠」。

…私にも、この発見は重要かもしれない。
自分を探す旅は、すなわち、誰かと関わること、繋げること、なのかもしれない。
スポンサーサイト
| アート鑑賞記 | COM(0) | TB(0) |







管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。